東京マラソン奮戦記
東京マラソン奮戦記 46 年度機械科卒・渡辺勇吉

私の趣味の一つにマラソンがある。フルマラソンに挑戦したのは平成10 年、館山市の若潮マラソン出場から始まって、これまで若潮を 6 回走破、タイムは 3 時間 35 分~4 時間 14 分で走ってきた。
今年、平成 25 年の東京マラソンが2月 24 日に開催されたので、この東京マラソンを契機に、私が昨年、平成 24 年の東京マラソンに挑戦し、その時に奮闘したことを懐かしく思い出したので、当時のメモを再編集して、その奮戦完走ぶりを紹介します。
この東京マラソン大会は石原前東京都知事の肝いりで平成 19 年(2007)から始まり、私が挑戦した平成 24 年の大会はロンドン・オリンピックの代表選手の選考大会でもあった。このフルマラソンは東京都心を 3 万 5 千人が走るとあって人気が高く、出場への競争率は10 倍と高い。是非走りたいと申し込んだらラッキーにも出場権を手に入れた。
さて、東京マラソンへの出走準備である。前年の 11 月から毎月 90~175km を走り込んだ。目標を 250~300km/月としてきたが、練習距離が伸びない。何回かの長距離練習では20~25km 付近で急にエネルギー枯渇状態になり、苦しくて走りきれない。節酒に努めた、仕事は忙しい、走る意欲にも不安が脳裏に浮かぶことがあった。しかし、大勢の観衆に見守られ、応援される中を快走する場面をイメージし、この東京マラソンを走るのは貴重な体験であり、走る実感、優越感が満たされるはずである。ステータスの一つでもあることを思い浮かべながら練習に励んだ。

そして、東京マラソン当日、多くのマラソン仲間や飲み友達から応援の電話、メールをいただいて幸せ一杯である。地方の大会ではこんなに注目されることはない。東京マラソンは国内でも特別の国際大会だ。練習不足でも根性と粘りを発揮すれば何とかなり得るはずだ。ただ、限界を超えるほど無理することは避けよう、生命危機へのリスク管理を肝に銘じた。この東京マラソンのコースは、東京都庁を出発→皇居→日比谷→品川→東京スカイツリー→浅草→銀座→東京ビックサイトがゴールの42.195km。日本陸上競技連盟の公認コースでもある。路面は平坦コースで走り易いはずだ。
スタートは都知事の挨拶やスタートイベントの後、3 万 5 千人が一斉にスタートした。天気は曇り、北風4℃~10℃。体調は順調、イメージしたとおり近代的な都心の風景を眺めながら順調に走り続けた。しかし、20km 付近からは苦戦が始まった。足の痙攣に悩まされ 4~5 回は走れず立ち止まりながら走ることになった。痛みに耐え我慢しながらゴールを目指す試練のレースとなった。

練習で不安だったエネルギー枯渇も始まり、走りながら、前方の二つ前の信号まで、あの陸橋までとか、前方に走る目標を定め走るが、二つ前の信号に達する前に気力と体力が維持できずに再三歩くことになる。このような走りのためゴールまでが遠いこと、遠いこと、意識も希薄になってくる。もし、一人で走っていたらリタイアである、周りを走るランナーに引っ張られるようにして東京ビックサイトにたどり着きゴール、苦しい走りを終えた。タイムは 4 時間 19 分でこれまでのワースト記録になった。それでも、完走したことの達成感には大満足であった。
完走のための準備としてウインドブレーカーを最初から着て走ったが、前半は脱ぎたかった、後半になって失速して寒さを凌ぐのには役立った。また、給水ボトル、携帯電話、足痙攣対策の塩、塩飴、SOYJOY を携帯して走ったが、20km以降では飲み物、食べ物が沿道に準備されているもので充分だった。
携帯電話は、走っている間は雑音や走る音で使えなかったが、応援の仲間に着位情報を送ることなどに役立った。完走後もすぐ応援仲間へ報告できたことは効果的であった。こうして、東京の大イベントである東京マラソンを完走できたことは、私のマラソン人生の貴重な勲章になっています。
以上
寄稿者:渡辺勇吉(S46機械)

